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# CULTURE

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2026.May.01

ワタナベアツシの音がく探訪 004

ワタナベアツシの音がく探訪 004

音楽ってさ、音学でもあるよね。
音を楽しみ、音から学ぶ。
そんな僕らのミュージックデイズ。

Crazyから生まれた星(後編)

 おはようございます、ワタナベアツシです。 前回は星野源がクレージーキャッツ(以下クレージー)から受けた影響について書いた。今回は続編として、クレージーとは何かを掘り下げたい。 

正式なグループ名は「ハナ肇とクレージーキャッツ」、出発点はジャズバンドであり、高い演奏技術で戦後の日本にひときわ異彩を放つ音楽集団だった。結成は1955年。ドラムのハナ肇、ギターの植木等、トロンボーンの谷啓、ピアノの石橋エータローと桜井センリ、ベースの犬塚弘、サックスの安田伸。 

彼らを全国区に押し上げたのは、その音楽性だけではない。テレビや映画に進出し、コミカルな演技とユーモアで人気を博したのである。中でも植木等の存在は象徴的で、テレビ番組「おとなの漫画」や「シャボン玉ホリデー」、楽曲「スーダラ節」、映画「無責任男」シリーズに代表されるように、真面目に生きることが正しいとされた時代に、「そのうちなんとかなるだろう」と歌い上げる姿は、多くの人々の心を晴れやかにした。音楽と笑い。その両方を高いレベルで成立させたクレージーは、日本のエンターテインメントの新しい在り方を示したのである。 

彼らは結成直後、ジャズ喫茶での演奏を中心に活動した。戦後の日本ではジャズバンドがエンターテインメントの中心だった。進駐軍の影響もあり、ジャズは新しく格好いい音楽として広まり、バンドマンたちは音楽だけでなく司会もこなす総合的な芸人として活動していた。こうした流れの中から、日本独自の芸能システムが形作られていく。渡辺プロダクション(渡辺晋)、ホリプロ(堀威夫)、田辺エージェンシー(田邊昭知)といった大手芸能事務所は、いずれも戦後のジャズマンが作った会社であり、音楽とテレビを横断するタレントをマネジメントすることで成長していった。ミュージシャンでありながら俳優やコメディアンとしても活躍するというスタイルは、この時代に確立されたものだった。 

このスタイル、どこかで聞いたことがないだろうか? そう、まさしく現在の星野源のスタイルへと続く系譜の出発点だったのである。

クレージーの次にそのスタイルを発展させたのは、何と言っても渡辺プロダクションの直属の後輩、ドリフターズだった。「8時だョ!全員集合」が国民的番組となり、圧倒的な人気を得ていた。クレージーのメンバーが40代に差し掛かり始めた1960年代後半には、日本のお笑いの主役はドリフへと移っていた。

実はその「8時だョ!全員集合」、一度だけ半年間休止されたことがある。1971年4月3日〜9月25日、この期間はクレージーが出演する「8時だョ!出発進行」という番組が放送されていた。表向きの理由は、ドリフが日本テレビで番組をスタートさせるため、とされたが、本当は違う。「もう一度グループとしてのクレージーにスポットライトを」という気持ちで、渡辺プロダクションが2グループを二枚看板とする構図を作りたかったからと言われている。 土曜日夜8時、テレビを賑わせていたクレージーを見てみたかったものだが、彼らは場所を譲ったのではなく、ただ同じ場所に立ち続けていただけなのかもしれない。 クレージーからドリフへ、そしてその先へ。その場所に今は星野源が立っているような気がしてならない。

前編はこちらから

ワタナベアツシ

1975年生れ/山梨県甲府市出身。株式会社シグナイトCOO、甲府東高校軽音楽部出身。60〜80年代の音楽、文化、芸能をこよなく愛す昭和男。座右の銘は「どうせこの世はホンダラダホイホイ」。オリオンイーストにて学生向けフリースペース、SHIRO-no-IROを運営。

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COLUMN
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