2025 Sat.

16

# NOVEL

share

2025.Aug.16

自分の選択≒『個性』

自分の選択≒『個性』

HN:ながみね

ガチ勢に思うこと

趣味の話題になると「いくら課金してる」、「〇〇についてこれだけ語れる」、「〇〇が正義だ!」と何かとすぐ張り合ってくる人がいるけど、正直な話、やっていて虚しくはないのだろうか。
それこそ、人を愛することに性別が関係ないみたいに、何を趣味にするかそれをどう楽しむのかは個人の自由だと思う。
たとえ理解できないことでも「それって本当に好きといえるのか」なんてわざわざ議論しなくてもいいのに。仕事にしろ、生活にしろ、日常的に何の制限も受けずに「自分の意思で自由に選べる」ことって案外少ない。それだけでも充分貴重だ。
思い返すと、私は子どもの頃から「自分のことは自分でやりたい」「その意思について他人に口を出されたくない」という性質があった。
他人に合わせて言動を変えるよりも、自分で考えて選んだり工夫して楽しむ方がずっと面白かった。何よりそれを捻じ曲げなければならない状況が苦痛で仕方がなかった。
この連載の初回でも書いた「私のあり方くらい、私自身で決める」とする価値観は、おそらくこの頃からあまり変わっていないのかもしれない。

趣味を選ぶ価値観も『個性』

それが趣味でも、いや、趣味だからこそ。誰かの価値観に縛られたくはない。
興味があれば二次創作から業界の裏話まで何でも調べるし、別にそれが一般的ではなくてもそれなりにプライドを持って楽しむだけだ。
「推し活」をしている人を見ていると、アイテムを手に入れるために毎日必死にアプリを開いたり、生活費を切り詰めてグッズ買ったりと、それがどうにも『義務』みたいに感じられて私には荷が重い。
やっぱり、そのとき何をするのか自分で選べるくらいの”遊び”がないとどこかに窮屈さを感じてしまう。
個性って「何を選んだのか」そのものじゃないかと思う。
日々選び取った行動、そこにつながる価値観がその人「らしさ」を作っている。理解されない趣味を持つのも自分らしさだし、それでも誰かと分かち合いたいと願うのも自分らしさ。
どっちが良いとか、どっちが悪いとかではなくて、個人が持つ『多様な側面』のうちのひとつに過ぎないというだけ。そうしたいろんな趣味嗜好があってこそ、多様性が生まれる。

個性は『選んだモノ』でできている

『自分を主体的に生きてこその人生』なんていうと大げさだけど。
私は自分が思っていることを曲げてまで相手に同調したり、変に見栄を張って偉そうにするようなことはできればしたくない。それ自体が、相手と自分に対してどこか不誠実なように感じてしまうからだ。
何だかんだ自分で選び決めた事実は変わらない、それがどういう結果になったとしても、それを選んだこと自体にはプライドを持っていたいと思う。
社会がいくら自由を謳っていても、環境や立場で制限されることは結構多い。それが個人の趣味にまで及んだら、いよいよ何のために生きているのかわからなくなってくる。
どんな趣味でも、それを心から楽しめるならそれで充分じゃないか。その人の個性は『これまで選んだモノ』でできている。
『ひとり遊び』になるのが寂しいのはわかるけども、そんなに張り合ったら却って逆効果じゃないのか。
なんてことを傍目に見て思うのは、私だけではないはずだ。

Tag
CULTURE
一覧に戻る