思いやりが行方不明
福祉施設を転々として気づいたことがある。
障害がある人の間にも意外と陰口って多いのだ。
ここに来る人は多かれ少なかれ傷ついた経験をしているはずなのに、気に入らないことがあるとすぐ他人を攻撃する。
休憩時間。
職員が見ていないことを良いことに、数名で固まっては「〇〇は仕事ができない」だの「頭がおかしい」だのと、周りに誰がいてもお構いなしに盛り上がっている。
職員が言ったなら差別だ虐待だと大騒ぎするクセに、利用者の発言になると問題にすらならないらしい。
「流石にこれはおかしいだろう」と何度も職員に訴えたけど、結局は「そんなのよくあることだから、あなたが気にすることじゃない」「自分のことに集中しなさい」と突っ返される始末。
実際、メディアが取り上げるほど有名な施設でも、やることさえやってくれれば、多少の嫌がらせくらいじゃ流されるなんてよくある話。
それによって症状が悪化した人が居ても「ストレスコントロールも訓練のうち」で処理される。
せめて、改善のために指導するとか、説明をするとかあってもいいと思うけど、それすらない。
ただの人間ですから。

社会がどれだけ障害特性を理解して受け入れようとしても、特性がある側が不満タラタラで好き放題してたんじゃ、権利擁護なんて馬鹿らしくてしょうがないと思う。
特性があるからといって他人に一切配慮しなくていいわけがないし、そういう人間をいつまでも野放しにしておくほど、世の中は優しくない。
変化を起こすなら足元から

『鋼の錬金術師』にも出ていたけど、世の中の仕組みを端的に表現すると「一は全、全は一」だ。
自分ひとりの仕事や周りとの関わりは、社会の仕組みを支えていて、また、自分の生活も誰かの仕事や関わってくれる人といった社会の仕組みに支えられている。
他所を攻撃したり、不満をこぼすことは誰にでもできるけど、結局、自分の周りの環境から変えていかないと、待ってたって変化なんか起きやしないのだ。
企業の不祥事をただ叩くよりも「自分の職場ってどうなんだろう」と考えてみるとか、海外の戦争に不安を感じたなら「どうしたら、戦争を起こさずに済むのか。自分にできることはないか」と想像してみるとか。環境問題や動植物に対してあれだけ想像力が使えるなら、それをもう少し人に活かしたっていいと思う。
そうして私は生きている

光が当たる場所に影ができるように、誰にだって長所と短所がある。
もちろん、ポジティブなときもあればネガティブなときもある。
善し悪しの問題ではなくて、ひとつひとつは個人を作るパーツに過ぎないということ。
どんな障害特性を持っていて、性別が何で、血液型がどうでも、それだけで私のすべてを語ることはできないし語らせる気もない。
私の存在はこの世界で唯一無二だ。
私のあり方くらい私自身で決めるし、それで何が起きたとしても、最後は自分でケジメをつける。
それが、私の生きる道だ。