2025 Fri.

26

# NOVEL

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2025.Dec.26

弱かったら駄目ですか?

弱かったら駄目ですか?

”弱さ”よりも”強さ”を求める社会

「強い人」「強くあろうとする姿勢」それらは簡単に評価される一方で、裏にある「弱さ」は軽視されやすい。
ゆえに、大抵は強さを認められた者は弱さを嘲笑い、強さを認められない者は「自分は弱いから」と”自己否定”に堕ちる。
私は今、その中間にいる。
というよりも、どちらの立場もわかるだけに、どちらかに立つことができないのだ。
世の中はあれだけ「生きやすさ」をスローガンに掲げているのに、実態はこんなものかと。
悲しみよりも虚無に近い気持ちが心を覆っていた。

「”誰も”が生きやすい社会」を実現するには、弱さを強さで”ドーピング”するよりも「弱くても大丈夫だ」と肯定できる環境を作るほうがずっと自然ではないかと思う。
弱さを見せられる環境なら、いくらか失敗もしやすくなる。
こんなことをいうと「甘い」と叱られそうだが、やはり、強さだけを過度に求める社会はいたるところで分断が多く、生きづらくなるのは仕方がないように思えてしまう。

弱くて当然。だって人間だもの

率直にいえば「よりよい社会にするなら、私ばかりが満足したって仕方がない」のだと思う。仮に私に特別なスキルがあり、周りの誰よりも優れているとされても、この社会にいるのが私ひとりでない以上はどうしたって他人の影響は避けられない。
とくに「聴覚過敏」などの「環境に影響される」特性は、その日その瞬間の体調が周りの状況によって良くもなるし、悪くもなる。
現時点での体調が1時間後に同じとは限らない。―――これを書いている私でさえ、その特性はあまりにも繊細なのだ。
それを無理やり誤魔化さないというだけで―――もともと、人間は弱い生き物だ。
野生動物や自然災害に太刀打ちすることはできないし、自分たちが作り出した物を自分たちで始末することすらできない。
しかし、弱いからこそ他人の痛みに共感し、手を差し伸べられる。知恵を出し合い、自分たちの生活をより豊かにできる。”助け合い”は、人間が古より受け継いだ生きる知恵でもあるのだ。

私は、自分の障害特性を「神様からのギフト」だなんて口が割けても言えないが、この繊細な感覚そのものは無駄ではないと思う。
細かい異変に気がつくのも、こうして言語化できるのも、繊細さがあるからこそできること。
そして何より、その特性に悩みながらも「自分がされたいことは、周りにも積極的にしよう」と考えられる私自身を、”カッコいい”とは思っても悲観はしていない。
やはり、私だけが満足するくらいなら、取り分が多少減っても誰かの喜びにつながるほうがより嬉しいし、なんならその誰かがまた別の誰かを喜ばせたとなれば、それだけで充分得をしたと思う。

”弱さ”を受け止められる社会へ

力を誇示せず、互いの弱さを認め合うことさえできれば、至らない部分は自然に補おうとするし、助けて欲しいときは声にも出しやすくなる。
そしたら、今よりもっと良い社会になるのではないだろうか。
人間は弱くて当たり前。弱さは否定するものではなく、認め合うもの。
力を誇示することが馬鹿らしくなるくらい、弱さを当然と受け止められる社会になったらいい。
弱さを抱えたまま、優しさだけで生きていくのは、そう簡単なことではない。
ときには辛いし、本気で心が折れそうになることもある。それでも、目指す未来が「誰もが生きやすくなる社会」ならば、どのみち避けて通ることはできないと思う。
来年こそは、皆が弱さを肯定し安心して生活できる社会に近づくよう願っている。

今年もご愛読のほど、誠にありがとうございました。
お体にお気をつけてよい新年をお迎えください。
また、来年もどうぞよろしくお願いします。

HN:ながみね

Tag
CULTURE
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