特性は「障害」か「個性」か
この連載でも度々触れてきたが、私は「障害は個性だ」という主張に対してはどちらかといえば否定的な感覚を持っている。今回は改めてその主張と向き合ってみたいと思う。
私には元々「アスペルガー症候群」の診断がついていた。もちろん、現在は「自閉症スペクトラム」に名前が変わっているが便宜上この診断名を使わせてもらう。なにせこの「アスペルガー症候群」の特性こそ、「個性」か「障害」で賛否が大きく分かれるからだ。
この障害(特性)は、職人のような高い集中力と作業への正確さといった有利な特性ほど「個性」と評価され、こだわりが強く融通が効かないことや、独特なコミュニケーションのとり方といった扱いにくい特性は「障害」とみなされることが多い。
私が障害を一概に「個性」と言えないのは、このコミュニケーションの難しさなどの「生きづらさ」が見落とされる懸念があるのと、ゆくゆくは「そもそも個性に配慮は必要なのか」という議論に発展するのではないかという不安があるからだ。

その特性には組織の課題が隠されている
私の特性は、傍目にはそうとわからないほど軽度なものらしい。
高校時代。その軽さと障害のイメージとのギャップに悩んでいたとき、教育相談の教師から「障害者手帳は生きづらさをサポートしてもらうためのもの。困ったときに手助けしてもらうためのツール。必要なくなったら返したら良い」といわれたことがある。
確かに、生きづらさがなかったら、わざわざ病院に行って薬をもらったり、わざわざ手帳を取得して福祉サービスを利用する必要がない。特性からくる生きづらさがあるなら、それはやはり障害と称するほかないのではないだろうか。
それに「障害は個性」といいつつ、世間は扱いにくい特性を「個性」とは認めない傾向にあるのも疑問だ。
とくにクリエイティブに有利な特性や能力が高いスポーツマンをイメージして言っているなら、流石に矛盾すぎやしないかとすら思う。
実は扱いにくいとされる特性にこそ、その組織が抱える課題が隠されていることも少なくない。
特性がある人が混乱する現場は、日常的に情報共有が足りていないことが多いし、作業の流れも部材の位置や取り扱いが明確化されていないから、責任監督する側でも認識に齟齬が生じる。
特性がある人の困り事は、特性がない人ですら「この現場大丈夫かな」という不安を感じているはずだ。こうした生きづらさの解消は、結果的に組織全体の課題解決につながるような気がしてならない。

生きづらさという「障害」に寄り添って
う考えると、やはり、障害は個性というよりも生きづらさそのものではないかと思う。
特性によって生きづらさを感じていればそれは障害になるし、別に診断がなくても、育った環境や言語の壁で『生きづらさ』を感じていればそれは充分障害になりうる。
障害は個性と安易に決めつけず、まずはその裏の生きづらさやしんどさに耳を傾けることが必要ではないだろうか。不器用でも社会に適応しようとする努力を評価しつつ、課題に対しては一緒に考えようというスタンスでいてくれるだけでも、こちら側としてはだいぶ心強い。
さて、これらを踏まえて貴方はどう考えるだろう。障害は「生きづらさ」なのか、それとも「個性」なのか。この問は様々な人が語り合う機会があってもいいと思う。よりよい社会を作るには、相互理解と歩み寄りが不可欠なのだから。
HN:ながみね