アスペルガー症候群の光と影
私には「アスペルガー症候群」の診断名がついている。もう人生の半分を、この障害とともに過ごしてきた
。
今では「自閉症スペクトラム」に名前が変わっている知っているが、私は未だに「アスペ」と蔑まれていた
頃を忘れられないでいる。
犯罪者とひとくくりにしたり、こだわりが強い特性を厄介者扱いしたりと散々弄られた挙句、今更「それは
個性だ」と手のひら返されても、正直信じられないのだ。
とはいえ、この特性を活かして芸術や学問・スポーツの分野で功績を残している人がいるのも事実。ただ、
皆が皆本当に米津玄師や栗原類になれるわけではない。
特性が個性に昇華できるのは、本人の努力ももちろんあるが、そういう環境を引き当てられるかという運要
素によるところも大きいと思う。

個性への配慮は「甘え」?
さて、障害は本当に個性だろうか。個性なら、配慮を求めることはやはり「甘え」になるのか。
一般的には理解されにくい「独り言」や「同じ発言を繰り返す」特性。これは、本人にとって安心する行動
ともいわれている。安心する行動を取るということは、裏を返すと不安を感じていたりその空間が居心地が
悪いということの現れだ。
想定していないイレギュラーの発生、それゆえのパニック状態。傍目にはそこら辺の一般人と大差なく見え
るからこうした行動がより目立つだけで、本人の中ではいっぱいいっぱいということもあるだろう。
障害を個性という論調には、こういった「周りから浮きがちな特性」はどの程度見えているのか。
言語化するのが難しい彼ら・彼女らの行動は、まさに「声なきSOS」。
ただ行動だけを捉えて否定あるいは肯定するのではなく、その原因にも着目してほしい。
原因を特定し、行動の意味を理解することで、はじめて「障害特性は個性」になりうるのだと思う。

一般人に「なりすまし」て生きる
やはり、障害は個性というよりも生きづらさそのものではないか。
特性によって生きづらさを感じていればそれは障害になるし、別に診断がなくても、貧困や言語の壁で『生
きづらさ』を感じていればそれは障害だと認めざるを得ない。
障害特性は個性に昇華できるというだけで、だからといって特性由来の生きづらさが消滅したわけじゃない
。
それでも、社会が求める『当たり前』に合わせるためにこちらなりに努力はしているのだ。イレギュラーを
極力減らすために念入りに打ち合わせしたり、できるだけメモをとったり。
できて当たり前に見えるのは、そう見せるための努力と工夫があるから。そういった『当たり前を遂行でき
る能力』によって助けられている部分もあるのではないか。世の中はそういった見えない部分をもっと評価
してくれてもいいと思う。
できたこと、できることは当然じゃない。想定外のミスに怯えながら挑戦しただけでも、実はかなり頑張っ
たほうなのだ。特性で考えたらできなくてもおかしくはないことを、社会で生きているためだと越えようと
する姿勢。一般人に「なりすまし」て生きる努力。それを、あなただったらどう評価するだろう。