特性とは
刑事ドラマSPEC(スペック)には、「数キロ先の音も聞こえる鋭敏な聴力を持った男」という『聴覚過敏』を拡大解釈したようなキャラクターが登場する。
数年前に偶然それを見て以来、私は自分の特性を「生まれ持った性能(スペック)」と考えるようになった。
別に、自分の特性が『特殊能力』だと言いたいわけではない。どんな能力でも、使い方によっては便利にも不便にもなるからだ。
「聴覚過敏」も、ときに「神経質」「気にしすぎ」と言われたりする反面、ハマる音や声があればすぐにリラックスモードに切り替えられるという利点もある。
まあ、聞こえないのも不便だし、聞こえすぎても却って不便。そういったアンバランスさもひっくるめて特性は「自分の性能」だと考えている。

本来、特性に優劣はない。
「スペック」と聞くと、スマホやPCといったものをイメージする。本来、端末そのものに優劣はない。良し悪しを決めるのは、基本的に使用者(ユーザー)だ。使いたい用途によって必要な性能はおのずと決まる。そして、どんなに性能が良くても、容量には制限があり、使っていればエラーも起きる。
人間も似たようなもので、血液型や出生地、目や肌の色、身体のつくりに至るまで、生まれつきの「標準性能」はそう簡単には変えられない。特性もそうだ。周りから浮いたり、扱いづらくても、生まれつきの感覚を本人でどうにかするというのは難しい。「特性を制御する」ことは、実際は口にするほど簡単ではないように思う。

「いつもどおり」で居られる環境
たぶん「いつもどおり」の状態を維持できたほうが、自分の性能を活かせるし、ずっと生きやすくなると思う。
最近は、前よりも「いかに特性を捻じ曲げずに居られるか」を重要視するようになった。
中には「甘えじゃないか」と考える人も居ると思う。だが、「多様な個性の尊重」というスローガンは、つまるところそういうことではないだろうか。特性があっても違和感なくそこに居続けられること。そこに居ることが不自然でなくなれば、それで良い気がする。
『合理的配慮』は、そういった性能を持つ人が違和感なく居られるように、空間を設定したり環境の整備を手助けする仕組みだと思っている。なにより、特性を持つ本人が納得できない配慮は、結局ただの「矯正」にしかならない気がする。
さっきも言ったとおり、性能の良し悪しを決めるのはユーザー側。個々の特性を前にして「扱いづらい」「面倒くさい」と感じるのは、もしかしたらその特性と扱い方が噛み合っていないだけかもしれない。
「標準性能」で勝負する
私は、新しいスキルを身につけるなら、「今の自分が持っている性能でどこまで通用するか」見極めてからでも遅くはないと思っている。特殊能力でなくても、生産性が高くなくてもいい。
私自身の性格でもあるかもしれないが、標準性能の自分がどこまで通用するのか、この目で確かめるまで、次へは進めないのだ。