2025 Thu.

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# COLUMN

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2025.Oct.09

ワタシはアスペ

ワタシはアスペ

アスペルガー症候群の光と影

私には「アスペルガー症候群」の診断名がついている。もう人生の半分を、この障害とともに過ごしてきた

今では「自閉症スペクトラム」に名前が変わっている知っているが、私は未だに「アスペ」と蔑まれていた
頃を忘れられないでいる。
犯罪者とひとくくりにしたり、こだわりが強い特性を厄介者扱いしたりと散々弄られた挙句、今更「それは
個性だ」と手のひら返されても、正直信じられないのだ。
とはいえ、この特性を活かして芸術や学問・スポーツの分野で功績を残している人がいるのも事実。ただ、
皆が皆本当に米津玄師や栗原類になれるわけではない。
特性が個性に昇華できるのは、本人の努力ももちろんあるが、そういう環境を引き当てられるかという運要
素によるところも大きいと思う。

個性への配慮は「甘え」?

さて、障害は本当に個性だろうか。個性なら、配慮を求めることはやはり「甘え」になるのか。
一般的には理解されにくい「独り言」や「同じ発言を繰り返す」特性。これは、本人にとって安心する行動
ともいわれている。安心する行動を取るということは、裏を返すと不安を感じていたりその空間が居心地が
悪いということの現れだ。
想定していないイレギュラーの発生、それゆえのパニック状態。傍目にはそこら辺の一般人と大差なく見え
るからこうした行動がより目立つだけで、本人の中ではいっぱいいっぱいということもあるだろう。
障害を個性という論調には、こういった「周りから浮きがちな特性」はどの程度見えているのか。
言語化するのが難しい彼ら・彼女らの行動は、まさに「声なきSOS」。
ただ行動だけを捉えて否定あるいは肯定するのではなく、その原因にも着目してほしい。
原因を特定し、行動の意味を理解することで、はじめて「障害特性は個性」になりうるのだと思う。

一般人に「なりすまし」て生きる

やはり、障害は個性というよりも生きづらさそのものではないか。
特性によって生きづらさを感じていればそれは障害になるし、別に診断がなくても、貧困や言語の壁で『生
きづらさ』を感じていればそれは障害だと認めざるを得ない。
障害特性は個性に昇華できるというだけで、だからといって特性由来の生きづらさが消滅したわけじゃない

それでも、社会が求める『当たり前』に合わせるためにこちらなりに努力はしているのだ。イレギュラーを
極力減らすために念入りに打ち合わせしたり、できるだけメモをとったり。
できて当たり前に見えるのは、そう見せるための努力と工夫があるから。そういった『当たり前を遂行でき
る能力』によって助けられている部分もあるのではないか。世の中はそういった見えない部分をもっと評価
してくれてもいいと思う。
できたこと、できることは当然じゃない。想定外のミスに怯えながら挑戦しただけでも、実はかなり頑張っ
たほうなのだ。特性で考えたらできなくてもおかしくはないことを、社会で生きているためだと越えようと
する姿勢。一般人に「なりすまし」て生きる努力。それを、あなただったらどう評価するだろう。

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