特性は本当に「個性」になるのか
世間が口にする「障害特性を個性と捉えよう」というのに「都合の良さ」みたいなものを感じてしまう。なんだかんだ自分たちが受け入れやすい特性だけを指して個性と言ってるだけではないか。とくに発達障害でいうと、創造性や独特な価値観は社会的に価値があるから個性として大事にされて、逆に聴覚過敏でイヤーマフをしてないと作業できない点や、ひとりの空間がないとパニックを起こしがちな点は扱いにくいからどうにかしろという。どちらも特性なのだから、両方が個性として尊重されなければおかしい。実際は、そこにいる個人や集団が無意識に受け入れやすい特性を選んでいるだけにすぎない。もちろん、差別されるのは嫌だけど、理解しやすい特性だけを取り上げて「個性」だと言われるのもそれはそれで何か引っかかる。障害特性なんて人それぞれ違うし、その特性によって生きづらさを感じているのは事実だ。個性だとひとくくりにする前に、実際に当事者と会って話しを聞いてみてほしい。それから判断するでも遅くはないと思う。

反抗心の裏にある思いに気づいて
椎名林檎の「青春の続き」には、こんな歌詞がある「動物好きと自負するあなた 犬猫には笑い掛けるの何 人間だって動物だから 口も噤んで黙っているし 懐いている者を受け入れて」。一方で動物を扱った番組で保護された犬や猫が、中々人間に懐かない様子を見て「人間と似てるな」と感じることもある。その障害特性の強さで差別されたりやいじめに遭うと、他人に心を開くのは中々難しい。仲間内で過激な発言をしたり、悪口で繋がりを強めようとするのも、社会に対する反抗心の表れだと思う。ここでいう社会とは、ネットのコミュニティ、家族や友人、前職の上司や先輩、学生時代の同級生などなど。その心理の根源は必ずしも今にあるとは限らない。格闘マンガの中ならまだしも、現実では理不尽な経験は恨みを残すだけで、成長につなげるのは至難の業だ。それに、皆が皆そんな超人的な強さを望んでいるわけじゃない。まずはこれ以上傷つきたくないとか、この傷をどうにかして癒やしたいとか、もっと初期段階の話しだと思う。問題行動を指摘するだけなら誰でもできる。重要なのは、その行動の裏にある辛さや思いに寄り添って解決策を一緒に考えることではないか。

社会参加への”条件”
一時期、「子供部屋おじさん(おばさん)」なる言葉がネットを賑わせていた。どうやら、実家から一度も出ずに親の世話になりっぱなしの成人を指す言葉らしい。発言者の意図はわからないが、こういった発言が却って当事者の社会参加を阻害していることに何故気が付かないのか。社会に出られない人が一番恐れているのがこの手の発言かもしれないのに。経験上、「自分は苦労してきた」と自負している人ほど、他者への配慮に欠けた発言をしやすい傾向がある。現実は「苦労した分、他人に優しくなれる」わけではないのだ。私もひとり暮らしの経験はまだないが、障害というものに対して世間がいかに無関心なのかを強く感じて腹が立ってくる。一人暮らしする以前に、社会へ出ることへのハードルが高い人だってたくさんいるのだ。口では社会参加を促しつつ、受け入れるための条件「できて当たり前」は山のように存在している。特性のコントロールだけでも精一杯なのに、これ以上の要求なんて応えられる自信がない。そういう人のことをもっと考えてほしい。

当たり前にできること、当たり前ではない時間と努力
障害とは「障害特性」のみを指すのではなく、「当たり前のことをするのに、時間がかかったり、一般的な人よりも努力が要ること」ではないかと思う。例えば、日本に住みながら日本語で会話するのが難しい外国人、運転免許を返納して移動手段に制限がある高齢者、まだ自分の身を守るのが難しく大人の悪意に晒されやすい子どもたち。これらは本人に特性があってもなくても、社会で生活するのに障害があると考えることができる。加えて、個人の性質で何が障害になるのかは、その時代の価値観やおかれた環境によっても違うのだ。年齢、国籍、性別関係なく、誰でもどこかでは障害者になる。障害はまさに自分が今感じているかもしれないことなのだ。